須磨明石の旅
(2017.3.3)

  2017年3月3日 須磨と明石を歩こうと ワイフと芦屋の家を出た。山陽電鉄で須磨浦公園駅で降り、一ノ谷や須磨寺を 訪ね、また明石を訪ねようとの計画だ。まずは須磨浦公園駅で降りて 敦盛塚 を目指した。そこには 敦盛そば屋が 横にあり 翌3月4日に熱盛祭りのポスタ‐が貼ってあった。山に登るのにロープウェイに乗る方法もあるが、止めて有名人の句碑が並ん でいるので山歩きで 鉢伏山上駅に行くことにした。芭蕉のカタツムリの句や蕪村虚子の句碑があった。やはり多くの文人が ほっておけない場所だなと改めて思った。鉢伏山上駅からはカーレーターとリフトを使って 須磨浦山上遊園まで登った。 ここから海を見下ろすと 右側に明石大橋が見え、左を見下ろすと おそらく「一ノ谷坂落とし」の場所であろうと思う所が 手前に、遠くに 須磨、神戸の街が見えた。ここが鉢伏山260mで、ここまで登ると旗振山252mはすぐだ。旗振山山頂には旗振茶屋が があり、親父から花崗岩のうまい水を買い、 一ノ谷坂落とし の 場所を聞いた。 旗振山は摂津と播磨の境界の境川のところ にある。旗振の所以はかって大きな旗で大阪の米相場を岡山に伝える旗振りをしたからという。 親父の話では鉄拐山236mの方に歩いていけば案内があるというので鉄拐山に向かって歩くと、 二つの山の中央辺りに「一の谷坂落とし」 という看板があった。そこからで 海の方に向かって 坂を下りることにした。確かにかなりの急坂だ。我々は 直接急降下する のでなくてループを使って降りるから良いが、 実際まっすぐ直線で降りるとしたら かなりの恐怖感だ。急坂を 降りると内裏公園、 別称一の谷公園があり、そこに安徳帝内裏跡があった。 ここで安徳帝を 拝んだ。さらにここを海岸近くまで下りると、戦いの浜碑 があった。


須磨の地図


須磨浦公園駅

敦盛塚と敦盛そば屋

芭蕉句碑、蝸牛角ふりわけよ須磨明石

子規虚子句碑

右手眼下に明石大橋

左手眼下に一の谷坂落としと源平の戦いの浜

旗振山山頂。右は摂津、左は播州。

旗振り山小屋の主人

一の谷坂落としの看板

一の谷坂落とし付近の地図

急勾配の坂落とし!

急勾配の坂落とし!

小さな安徳帝内裏跡

須磨海岸の一の谷合戦の舞台、戦いの浜碑

 次に目指すのは 須磨寺だ。敦盛と熊谷直実の戦いの像があるはずということで 歩きで 東に向かい須磨寺を目ざした。 須磨寺の長い参道の両脇にはアジアの神々を祀っている亜細亜万神殿回廊があった。ネパールの人々が阪神淡路大震災の後、祈って くれた ことがきっかけで 建てた と聞いた。須磨寺は仁王門を入ると源平の庭があり 敦盛と熊谷直実の戦いの像があった。さらに 唐門をくぐると敦盛の首塚や弁慶の鐘があった。


須磨寺全体図


亜細亜万神殿

敦盛と熊谷直実の戦い、馬上の像

須磨寺本堂

敦盛の青葉の笛

敦盛の首洗池と義経の腰掛松(首を検分)

敦盛の首塚

蕪村の「笛の音に波もよりくる須磨の秋」

弁慶の鐘

 次に須磨駅からJRで明石駅に行った。JR 明石駅の真ん前に明石公園、明石城跡があった。その東側に日本の標準時 東経135°の 子午線が走っている。 その標識がなぜかトンボの標識だが、これは秋津島から来たらしい、また標識のネズミは子午線の子。 子午線とは 十二支の真北が子で真南が午。その南北 を結ぶ線の経線のことを子午線と呼ぶ。明石市立天文科学館 の子午線標識を 含めて 東経135°の位置にいくつかの標識が並んでいる。
 また、奈良ではなく明石に柿本人麻呂神社があるのは不思議な感じがするが、柿本人麻呂の神霊がこの地に留まったからという。 小笠原忠真が 人麻呂を祀って作った。その神社の真ん前に日時計があるのはさすがという感じ。 さすがにぴったり 時刻は正確だった。   


明石駅前の明石公園

明石城跡

東経135度の子午線上に標識が並ぶ

明石天文科学館と子午線標識塔

東経135度の子午線の地図

柿本神社前の日時計

柿本神社は歌と学問の神様

明石の芭蕉句


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