¥^¥/¥^ 品川宿川崎宿の旧東海道歩き

品川宿川崎宿の旧東海道歩き
(2024.5.16)

 今まで旧東海道を街道歩きしてきたが、灯台もと暗しで、近隣の江戸神奈川付近がまだ歩いていない。 そこで私が @品川宿から川崎宿まで A川崎宿から神奈川宿まで B横浜の外国人居留地 の三つに分けて一日ずつの街歩き計画 を作った。そして5月16日に @品川宿から川崎宿まで をいつもの街歩きの仲間 5人で歩いた。


品川宿kから崎宿の旧東海道歩き地図(京急新馬場駅から平和島駅)

5月16日京急新馬場駅に5人が集合、品川宿から川崎宿をめがけての街歩き行った。 2017年にこの新馬場駅から品川宿本陣に行き、旧東海道を日本橋方向に歩いたが、今回は逆の川崎宿方向を歩くわけである。江戸の リゾート地だった品川は「北の吉原、南の品川」と言われ、百件近くの旅籠屋に1500人の飯盛り女がいて活況を呈した。 今も品川宿本陣は人気のスポットであるらしく、前回もそうであったが今回も多くのの旅行者に出くわした。 旧東海道を川崎宿に向けて歩くとすぐ品川宿交流館にぶつかる。ここでは「品川宿は文明開化のテーマパーク」との表示があり、 品川で産声を上げた近代産業として、ガラス産業、ビール、ペイント、等があげられていた。確かに近隣に品川ガラス製造所跡、ビール 発祥の地、日本ペイント工場跡などがある。
 東海道が目黒川と交差するコーナーに旧交番のまちなか観光案内書があり、そこで東海道品川宿歩きのマップをもらった。
 次の品川 寺(ほんせんじ)には江戸の各街道 出口にある 江戸 六地蔵の最初、最大の地蔵があった。立派な鐘楼 と大銀杏も有名。  次に訪れた海晏寺は昔は 大寺であり、紅葉の名所であったというが今は寂れている。すぐ左手に北条時頼 時宗 梶原景時 の供養塔が並ぶ。 境内奥の山頂には 岩倉具視、松平春嶽の墓があるが一般の参拝は禁止で背後の道路から覗くしかない。
 くらやみ(仙台坂)へだてて海晏寺と反対側にある泊船寺は昔芭蕉らが句会を開いた寺で、芭蕉の座像や句碑が残っていたが、芭蕉の 木造座像は朽ちていてよくわからない。
 これ以降は東海道を離れて、南側の運河沿いを歩いた。1kmあまり歩くと浜川砲台に行き着いた。幕末に外国船の来航に備え、土佐藩が 築造した砲台場があり、坂本龍馬は 20歳で浜川砲台の警護のために 土佐藩下屋敷に赴任した。浜川は若き龍馬の覚醒の地とされる。
 この近くに涙橋(浜川橋)があり、鈴ヶ森刑場に向かう罪人が家族と別れた橋である。ここから0.6kmほど行ったところ、東海道が 国道15号線と一緒になる三角地 に鈴ヶ森刑場跡があった。直径50cm台の 丸石(丸い穴)は火あぶり用の鉄柱の台石で、四角石(四角穴) 貼り付け柱の台石。 丸橋忠弥、白井権八、八百屋お七 などが 処刑 された場所である。
 さらに磐井神社(鈴が森神社 )を目指して2kmほど歩く計画であったが、品川水族館の近くまできた時に歩き疲れの声が出て、 品川水族館を見学後電車で平和島に行くことに変更となった。しながわ水族館の売りはトンネル水槽だそうだが、沖縄の美ら海水族館など と比較するとインパクトは無かった。平和島駅近くの らくらく平和島店で打ち上げしたが安くて感じの良い店だった。

 

2017年に訪れた品川神社を望む

再び訪れた品川宿本陣跡

品川宿交流館く

文明開化は品川から、確かにそうだ

江戸六地蔵の一つ、左に2.7m高の品川寺の六地蔵、最古で最大

海晏寺、昔は大伽藍だった

海晏寺、入ってすぐ左の北条時頼,時宗,梶原景時の供養塔

泊船寺、かっては芭蕉の句会の場、今はさびれている

泊船寺の芭蕉像、よくわからない

屋形船釣り船の舟だまり

浜川砲台跡、土佐藩が建造し坂本龍馬も働いた

浜川の坂本龍馬像

鈴ヶ森刑場に向かって家族と別れた涙橋(浜川橋)

鈴ヶ森刑場跡、火あぶり用の鉄柱礎石、はり付柱礎石

左側が首を洗った井戸

しながわ水族館入口

これがしながわ水族館最大の売り、トンネル水槽

平和島駅近の楽楽で打ち上げ

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