旧品川街歩き
(2017.9.27)

  街歩き仲間での東京近辺の半日街歩きは9月29日(金)の旧品川の街歩き が9回目となる。即ち、2012年12月の 東大駒場周辺 にはじまり、谷中周辺、国分寺周辺、文京区庭園巡り、 等々力〜二子多摩川、鎌倉史跡巡り、横浜南を歩く、江東区深川巡りと年2回位のペースで歩いてきた。 現在の仲間のメンバーは8人となったが、各メンバーが交代で街歩きの企画をしてきた。
  今回は私自身が歩きの企画者となり、「江戸への入口として栄え、幕末→明治の流れを作った旧品川 の街歩き」を企画したが、計画した所を事前に歩き学習した。   当日は13:30に京急線新馬場駅をスタートし、田町方面に17:00まで 街歩きし、17時から田町駅に近い「炭火焼き湯浅」で打ち上げ会食する計画とした。
  尚、歩きの行程をGoogleMapの経路で作り、それをスマホに転送して、スマホの地図で確認しながら 歩いた。


GoogleMapで描いた旧品川街歩き行程図1(新馬場駅から品川駅)


GoogleMapで描いた旧品川街歩き工程図2(品川駅から水野監物中屋敷跡)


  13時半に8人の仲間が新馬場駅を出発。環六を横切り、目黒川沿いを西に歩いた。ここも 春には桜花爛漫となり、賑わいを見せることだろう。
  東海寺は、徳川家光が沢庵和尚を江戸に呼んで開かせた寺で、江戸では徳川家菩提寺の寛永寺、増上寺に次ぐ 大寺となったが、明治維新後は急速に衰退した。綱吉の生母桂昌院の寄進した鐘堂が今はひっそり中央にある。 沢庵和尚は沢庵漬けの考案者。次に東海寺大山墓地に向かった。かっては東海寺は大きな敷地の寺であり、 その一角にあった墓地は今は飛び地になって東海道本線の線路脇の細い道を上って行きついた。沢庵和尚の墓は シンプルな自然石で、漬物石が載っているように見え面白い。賀茂真淵の墓もあるし、鉄道の父、井上勝の墓もある。
  北品川出身の人気歌手、島倉千代子の墓があり、供花が絶えることがない。
  品川神社の創建は源頼朝というが、その後東海寺の鎮守となった。新馬場駅の目の前の高台の上にあり、 一角に都内でも最大級の富士塚(富士塚は富士山から運んだ溶岩を積んで作る富士信仰のシンボル)が造られて いる。我々は品川神社の階段の途中から富士塚を登って、頂上から外界を眺めた。品川神社は東京十社巡りの 一つになる立派な神社だった。隣の敷地に「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助の墓があった。

  

13時半新馬場駅スタート

今はひっそりの東海寺

沢庵和尚の墓

供花が絶えることない島倉千代子の墓

富士塚頂上から下界の京急電車を眺める

東京十社の一つ、品川神社

右が「板垣死すとも自由は死せず」の碑と
左が板垣退助の墓

品川神社の階段は右手にあり、中央が富士塚

  品川神社から第一京浜道を横切って北品川商店街を行くと品川宿本陣跡があった。かっては東海道を日本橋スタートし、 最初の宿であったし、江戸入り前に休泊身支度する宿として栄え、遊興地としても賑わった。現在は聖蹟公園内。 本来、品川の中心はここらへん。JR品川駅は北品川の更に北にあり、品川区でなく港区である。
  利(かが)田(た)神社はかっては入江に突き出た岬の弁財天で、沢庵和尚が勧請した。その横にある鯨塚は湾に 迷い込んだ17mの鯨の骨を埋めた塚で、江戸の騒ぎとなり将軍家斉も見物したという。
  しばらく行くと、品川浦船だまりに行き着いた。こんな都会にこんな鄙びた船溜まりがあるとは?スケッチ、 写真の対象として愛好家に人気のようだ。船溜まりを西に行くと問答河岸跡があった。江戸時代はここは船着き場で ここまで海岸だったのだ。将軍家光が東海寺の沢庵和尚を訪ね、「海近くして東(遠)海寺とはこれいかに?」 と尋ねると沢庵は「大軍率いても将(小)軍と言うが如し」と答えたという記録がある。(徳川実記)


旧東海道はこの道幅で品川宿本陣は右手

品川宿本陣跡の聖蹟公園内はツアーの説明中

利田神社

鯨塚は湾に迷い込んだ17mの鯨の塚

品川浦船溜まりは絵画愛好家が集まる

家光と沢庵の問答河岸

  問答河岸跡から八ツ山橋を通り、JR品川駅に向かった。品川駅のガード下に沿ってラーメンなどの食堂街があるが、 品川大規模ホテル群との対比が面白かった。第一京浜をしばらく行き、左手に入り東禅寺に行き着いた。多くの大名が ここを菩提寺とした禅宗の大寺院であるが、幕末には最初のイギリス公使館がここに置かれた。当時イギリスは薩長派を 支援しフランスが幕府を支援していた。イギリス公使パークスの判断が江戸の大火を防いだと言われる位に大きな影響力 を持っていた。ここから予定外であったが、「細川越中守中屋敷跡」に行くことにした。討ち入りの後、赤穂浪士四十七 士は細川、水野、等4家に分けられ、幕府の沙汰を待ち、結局切腹の沙汰となったが、大石内蔵助らが切腹したのはこの 場所であった。この後は裏側から泉岳寺の立派な山門に至った。ここには主君より有名になった大石蔵之介の像があった。 赤穂浪士の墓は泉岳寺にあるが、墓は4家に分けられていて、奥に浅野内匠頭、赤穂浪士の墓が並んであった。


古くさくなったJR品川駅

東禅寺にはイギリス公使館が置かれた。

東禅寺は立派な寺、三重塔がある

細川越中守中屋敷、大石内蔵助切腹の地

泉岳寺、右手に大石内蔵助の像

赤穂浪士の墓は蟄居させられた四家に分かれて眠る

右手の浅野主君の墓と左が大石の墓

吉良の首を洗ったと言われる井戸

  都営浅草線の泉岳寺駅の東側を覗くと、JR田町駅と品川駅の間にできる新駅のための工事が進行中であった。 付近は広大であり、周りがNewTownとなることが想像できる。更に第一京浜を北上すると、右手に高輪大木戸跡 に至った。江戸時代に道の両側に石垣を築き、木戸を設けて、人馬、荷物の検査をした場所だ。この後は第一京浜の左手を 北上し、御田八幡神社に行き着いた。この近辺の三田の地名の由来となった神社である。更に北上し、元和キリシタン遺跡 を訪ねた。江戸初期の元和にキリシタンが禁止され、50人が処刑された所である。
  ここから高所に出るために便利に設置されているエレベーターで上り、高台の聖坂に出て、済海寺に行ったが、遅かった ためか?閉門となっていた。ここは幕末に最初のフランス領事館が置かれた場所である。更に聖坂を北上し、慶應大学三田 キャンパスに至った。ここでは福沢諭吉がSPEECHを演説と訳し、毎月演説会を行ったという三田演説館を訪ね、更に慶応大学 のシンボルである、慶應義塾図書館(50周年記念の1912年完成)を訪ねた。
  慶應大学の後は、三菱自動車本社前にある江戸開城西郷隆盛勝海舟会見の地を訪ねた。ここは当時、薩摩藩上屋敷 跡である。西郷は、イギリス公使パークスにより、横浜の外国人病院(負傷者用)借用申し込みを拒絶され、攻撃中止の圧力 をかけられた。パークスが薩長に依る江戸城攻撃に反対したことが、西郷の攻撃中止判断に大きな影響を与えたという。
  最後に訪ねたのは、赤穂浪士謹慎場所の一つであった水野監物中屋敷跡(間十次郎、神崎与五郎ら9人が切腹した場所) である。水野監物中屋敷跡の極近傍にある店、炭火焼き湯浅で街歩きを締めくくった。


高輪大木戸跡

三田の由来となった御田神社

元和キリシタン遺跡の碑

済海寺はフランス領事館が置かれた場所

慶應大学三田演説館

慶應大学のシンボル1912年完成の図書館

江戸開城西郷勝会見の場、薩摩上屋敷跡

水野監物中屋敷跡、赤穂浪士切腹した場所


・旧品川街歩き総括:

  旧品川街歩きをどう歩くかを企画するに当たって、調べれば調べるほど、訪ねたくなる場所がどんどん膨らみ、結局は 3.5時間という結構キツイ街歩きになったしまった。
  この地区にはいくつかのポイントが有るが、まずは品川宿が江戸日本橋の隣の宿場としても、また近くに東海寺という 大寺があったことでも、大いに栄えたこと。将軍家光と東海寺の沢庵和尚の会話や、将軍様がクジラを見に出歩いたという話 は何か親しみやすい、江戸の幸せな生活の臭がするようだ。
  2つ目は泉岳寺、細川家を始めとする赤穂浪士関係の遺構の残る街だということ。
  3つ目は英国領事館、西郷・勝会談の薩摩屋敷など開国〜明治にかけての歴史を作ってきた街だという点であり、たくさん の視点のある有意義な街歩きだったと考えている。
  更に歩きに、スマホに転送したGoogleMapの経路地図で持ち歩き、確認しながら歩いたのは大正解だった。自分の位置が GPSで地図上にわかり、スマホが右行け、左行けと教えてくれる。仲間を間違わず誘導できたのは、事前歩きとスマホマップ のお陰だと思う。




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