最古の官道、竹内街道と山の辺の道の旅
(2016.4.20-22)

  2016年4月20-22日の3日間でいつもの仲間と最古の街道、竹内(たけのうち)街道と山の辺の道を歩いた。
  関西は私が5年程住んだことがあり、勝手知ったるということで私が大まかな計画を作り、いつものように街道歩きのプロ の友人が工程表として整理してくれた。その工程表が下記である。
  竹内街道は堺市から竹内峠を越えて當麻(たいま)の長尾神社に至る約26qの道のりであり、その歴史は推古天皇が造った 「大道」が起源といわれ、二上山のサヌカイトを採取するための道が整備されて、日本最初の官道となったといわれる。 飛鳥時代には都は飛鳥であり、大陸との交易の港は難波津(今の難波)であったから飛鳥ー堺ー難波を結ぶ、まさに最重要道路 であったろう。この道沿いに墓を作った聖徳太子や小野妹子らの遣隋使や、大陸からの使者たちが足繁く往来したであろう。 この沿道には5世紀ころに建造された、大きさで全国トップ3の仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中天皇陵などの大古墳群(堺地区) があり、更に飛鳥時代の敏達天皇御陵、用明天皇御陵、推古天皇御陵、聖徳太子御陵などの大王古墳群(太子町地区)がある。 これらの古墳が竹内街道に沿っているという理由の一つは目立つように大規模な古墳を造り、国民にも、外国使節にも大きな 威圧感を与えることであったと思われる。
  古道の面影が残っているのは竹内街道の約半分で、我々は、上ノ太子駅から長尾神社までの歩きを計画した。

  一方、山の辺の道は奈良盆地の東南にある三輪山のふもとから東北部の春日山のふもとまで、全長は約35km、曲がりくねった その幅は2m足らずの小道である。沿道には石上(いそのかみ)神宮、大神(おおみわ)神社、長岳寺、崇神天皇陵、景行天皇陵、 三輪山近くの海石榴市(つばいち、日本最古の市)などがあり、文化交流の重要な幹線道路であったであろう。崇神天皇陵、 景行天皇陵が「山の辺の道の岡」にあると『古事記』に記されているところから少なくとも8世紀の初めにはこの道が出来ており、 7世紀末の藤原京時代にもできあがっていたいわれる。勿論 飛鳥と奈良の二つの都をを結ぶ道として使われたであろうが、 二都をつなぐ道としてはその西側に上つ道、中つ道、下つ道などもあり、徐々に「山の辺の道」は幹線道路で無くなっていった ようである


最古の官道、竹内街道と山の辺の道の旅の日程計画(2016年4月20日−22日)


最古の官道エリア全体の地図



4月20日(水)の朝7時前に家を出発して新横浜から新幹線。新大阪駅で6人が集合。 阿部野橋駅から近鉄で上ノ太子駅まで行き12時に上ノ太子駅から歩きをスタートした。本日は天気が上々、予定は 上ノ太子駅から竹ノ内街道を磐城駅まで歩く計画だ。


竹内街道エリア全体の地図

  古代に難波から見て、奈良の飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼んだのに対し、太子町のあたりは「近つ飛鳥」 と呼ばれた。事実この付近は飛鳥時代のものが多く、梅鉢御陵と総称される、敏達・用明・推古・幸徳天皇陵と聖徳太子御廟 をはじめ、飛鳥時代の多くの古墳が集まっている。太子町の太子とは聖徳太子のことだ。
  上ノ太子駅を出て、太子町役場の方向に歩く途中で雰囲気のある街並みを抜けたところに、小さな池があり、そこから 特徴のある山が見えた。通りかかった女性に聞いたら、やはり二上山(にじょうさん、昔はふたかみやま)であった。雄岳と 雌岳が寄り添う美しい山だ。万葉集にも歌われ、武器の原料になるサヌカイトが産出されたことから、古から有名であり、 悲劇の皇子、大津皇子の墓もある。
  次に竹ノ内街道を少し離れて、古墳巡りをした。まずは聖徳太子の御廟がある叡福寺で、太子詣で有名な寺である。もともと、 太子がここに墓を作ることにした時、推古天皇はそれを守るために建てたのが叡福寺といわれる。直径50mの円墳で小さいが、 太子以外に母親と妃の3人が葬られ三骨一廟といわれる。私にとっては3回目の訪問であったが、かなり記憶が遠くなっている。 太子の御墓の前に以前からこんな立派な門があったことを忘れている。墓の前の廟所が立派で素晴らしい。 なかなか風格のある寺の建物と背景の森と空が見事に調和して実に美しい、みな満足したようだ。叡福寺の正面の階段を下りた ところで、町おこしのグループが街のパンフレット類を配り、南河内をロケ場所にした映画「明日になれば」の宣伝をしていた。
  ここから用明天皇陵(聖徳太子の父)の横を通り、推古天皇陵、小野妹子の墓を訪ねた。 日本初の女帝の推古天皇は聖徳太子を摂政とし、多くの改革を行った。陵は60m四方とこじんまりしているが美しい。 遣隋使の小野妹子の墓は科長神社の脇を登ったところにあり、周囲を一周できた。
  ここから竹内街道に戻り旧山本家を訪ねたが平日クローズであった。しかし、その近くで大きな油絵を描いている人がいた。 すでに3か月も堺からここに通って描いていると聞いた。太子町は古い町並みが美しく私も描きたくなるモチーフだ。



上ノ太子駅スタート

左遠方の二上山

叡福寺と太子御廟

聖徳太子御廟(三骨一廟)

太子御廟側から見た叡福寺

南河内の映画のパンフレット

推古天皇陵全景

推古天皇陵

小野妹子の墓

旧山本家

大作の横に立つ

太子町の古い町並み(絵のモチーフ)

   このすぐ近くが竹内街道歴史資料館であり、見ごたえがあった。来訪者が少なかったこともあってか、 古代の服を着せて もらうサービスに与った。この服は叡福寺の祭りの行列に使うのだそうだ。すぐ近くの道の駅では姫路から来た二人組の女性 と会ったが、我々とほぼ同じルートをたどり、日帰りで姫路に戻るというから凄い。よく聞くと私と同じ新日鉄の関係の人で 姫路市広畑区の住民であった。
  この先は4k程坂道を上り、竹内峠に辿り着いた。ここには3つの石碑が並んでいる。最も左が「鶯の関跡、・・・ 司馬遼太郎 写」の碑だ。この峠を4.5k下った當麻の竹内集落は司馬遼太郎が幼少の頃暮らした町だ。竹内峠は二上山に近く、 頂上付近に悲劇の大津皇子の墓が見えるような気がした。
  竹ノ内集落は太子町の集落とは異なるが、同じく古い町並みで、特に立派な家が多い。この中に芭蕉で有名な綿弓塚がある。 綿弓塚とはどういう意味なのか分からなかったが、綿弓塚横の休憩所の中に入ると弓のような形をした織具があり、 これが綿弓かと分かった。芭蕉の句「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」とあった。綿弓で綿を打つ時に琵琶の音のような音が出るのです。 ここでも例の姫路の二人連れに会った。
  更に4k程行くと竹内街道終点の長尾神社であった。長尾神社は、大和に住む大きな蛇が三輪山を3重に巻いた後、その尾に 当たることから名付けられたという古社。ここから磐城駅は徒歩5分で、近鉄電車で橿原神宮駅まで行き、本日は橿原ロイヤル ホテル宿泊だ。泊まって分かったことだが、天皇陛下がこちらに来られた時にお泊りになるホテルのようだった。

 

竹内街道歴史資料館

資料館展示(シルクロードの東の端)

古代服を着る

竹内峠

竹内峠近くからの二上山

立派な家が並ぶ竹内集落

綿弓塚

綿弓塚休憩所内、芭蕉の句と右奥の綿弓

竹内街道終点の碑

長尾神社

橿原ロイヤルホテル

天皇がお泊りになった時のパネル写真
 

  翌4月21日は同じく最古の官道といわれる「山の辺の道」歩きだ。現在一般的に歩くコースとして天理市 の石上神宮から桜井市の大神神社付近までの約15kmの行程が親しまれていて、その多くは東海自然歩道となっている。我々が 歩いたのも 石上(いそのかみ)神宮から大神(おおみわ)神社、埋蔵文化センター付近までの約17kmが当初計画していた行程 であったが、更には3q加えて箸墓古墳を訪ねた。


山の辺の道 エリア全体の地図

  21日朝7時半に橿原神宮駅を出発、天理駅で電車を降り、石上神社までタクシーで行った。途中右手に天理参考館、天理大学 などの天理教の巨大な建物群が並んでいた。
  石上神宮は日本最古の神社の一つといわれる。事実、古事記に登場する神社は石上神宮と伊勢神宮だけである。うっそうと した森の中にあり、境内の各所に神聖とされる鶏がのどかに闊歩したり、木に上ったりしている。入り口の楼門は国宝であり、 同じく国宝の拝殿で参拝したが、さすがに重厚なる風格を感じた。
  この後入り口に引き返し、牛の像のある所から右手が「山の辺の道」の出発点であった。山裾の曲がりくねった道で、全長約 15km、幅は2m足らずの小道であるが、最初はのどかな果樹園通りの感があった。梅や柑橘類の木は直ぐわかったが、梅にしては太い、 はたして何の木かと思った木は柿の木であった。そういえば奈良の有名な土産は柿の葉寿司、奈良には柿の木が多いのだと悟った。 夜都伎神社は無人であった。俗っぽくなくのどかな緑の道を新鮮な空気を吸いながら歩く、心が洗われる気分だ。程なくして民家 集落があり、その中に中世に戦乱を逃れるために作ったという、竹内環濠集落があった。萱生環濠集落も過ぎて更に道を進めると かなり大きい古墳が見えてきた。継体天皇の皇后、手白香皇女の陵墓とされる衾田陵である。更に柿本人麻呂の歌碑を過ぎて、 花の寺といわれる長岳寺に達した。ここは弘法大師が開いたとされる名刹である。つつじ、紫陽花が美しくさすがであった。 直ぐ横に天理市トレイルセンターがありここで昼食とした。実はここ以外に昼食をとれるところがなく、センターはごったがえ していた。

巨大な天理参考館

石上神宮を闊歩する鶏と牛の像

赤い廻廊の向こうは国宝の楼門

国宝の拝殿(後面に本殿)

山の辺の道スタート

柿の木、梅の木、果樹園ロード

人けのない夜都岐神社

竹内環濠集落

衾田陵

柿本人麻呂の碑

花の美しい長岳寺

昼食をとったトレイルセンター


  午後はまず、山の辺の道から外れて、黒塚古墳に向かった。黒塚古墳は130m長と小ぶりの前方後円墳ではあるが、 盗掘されず完全な形で残っていた貴重な古墳である。古墳に上って位置を確認した後、展示館で実物大の竪穴式石室の レプリカを見た。三角縁神獣鏡も33枚出土したなど見所が多かった。
  この後再び山の辺の道に戻り、全長240mの崇神天皇陵にを訪ねた。第10代崇神天皇は初の実在天皇といわれ、 大和朝廷を確立したといわれる天皇である。周濠が巡り、大和平野を見渡せる位置にある。続いては景行天皇陵 である。日本武尊の父といわれる第12代の天皇であり、全長300mと大きい。更にのどかな田園の道を進むと、 檜原神社に至った。
  檜原神社は伊勢神宮の前に「天照大神」が奉られていた「元伊勢」の地とされている。その御由緒が看板にあり、 日本書記によれば、崇神天皇の代に国中に疫病が流行り、その対策として、 崇神天皇は「天照大神」と「倭大国魂神」 という二つの神様を、宮中から外に遷すこととした。「天照大神」はこの地に遷り、更に90年後の657年に伊勢に遷り、 これが伊勢神宮の創祀と云われています。
  檜原神社には 、神殿も拝殿もなく、特有な形の三つ鳥居を通して三輪山を拝するという、シンプルな古代の祈り の場がそこにはあります。鳥居も縄締めの特有の形であり、この形が神社の本来の姿ではないかと思ってしまい、 身が引き締まる感じがするとともに、厳かなパワーを感じる気がします。
  更に狭井(さい)神社を経て、昔のままかと思わせる山の辺の道をたどると大神(おおみわ)神社に至った。 大神神社は日本最古の神社といわれ、三輪山を御神体とし、本殿はなく拝殿の奥にある三つ鳥居を通して三輪山を拝む という、檜原神社と似た古代の信仰の形です。
  山の辺の道としては大神神社を最後とし、西に向かい桜井市埋蔵文化財センターを訪ねた。この一帯は巻向(纏向) といわれるが、卑弥呼の都がここにあったのではないかと古代ロマンをかき立てられる場所です。もともと箸墓古墳 (百襲姫の墓とされている)が卑弥呼の墓ではないのかとの説もあるが、最近、大規模な館群の纏向遺跡が 発掘され、これを卑弥呼の館と考える人も多いのです。このようないきさつで、埋蔵文化センターを訪ね、纏向遺跡 発掘の様子を見て、計画外であったが、やはり箸墓古墳にも行こうということになった。
  箸墓古墳は全長280mと大規模で、大規模な古墳の中では最も古い時期のものとされ、卑弥呼の時期とほぼ一致する との見方があり、卑弥呼が死んで葬られた墓は、じつは日本で最初に造られた巨大な前方後円墳ではないか、という 見方が現実となってきているのです。   私は箸墓古墳に来たのは、最初に山の辺の道に沿って車で来た時と、纏向遺跡発掘状況を見に来た時と、今回で 3度目ですが、いつ来ても箸墓古墳は美しい。やはり卑弥呼の墓であってほしいと思ってしまう。
  この後は巻向駅まで歩き、巻向駅から当日の宿、保養センター美榛(みはる)苑のある榛原(はいばら)駅まで電車に乗った。


黒塚古墳

古墳内部

崇神天皇陵

花のきれいな崇神陵

景行天皇陵

檜原神社

檜原神社の御由緒

狭井神社

昔のまま?山の辺の道

大神神社

埋蔵文化センター

巻向遺跡発掘の説明

箸墓古墳正面

箸墓古墳全景

巻向遺跡発掘の看板

保養センター美榛苑
  

    3日目は長谷寺行きだが、帰り時間の関係で私だけが早めにホテルを朝8時前に出発した。長谷寺は2度目だが、 電車で来るのは初めてだ。榛原駅→長谷寺駅で下り、駅前広場の看板を確認。長谷寺までは15分とあったが、 これは長谷寺の入り口までであり、本堂までは更に遠い。長谷寺の正面に立った時、仁王門が改修中と分かり 残念ではあったが、仁王門から有名な登廊(のぼりろう)を登りながら、丁度見頃になっていたボタンの美しい花群を見て、 補われた感じがした。長い登廊を登り切ると国宝の本堂に辿り着いた。かなり急いだつもりだが、本堂までは 長谷寺駅からは30分かかった。 本堂ではご本尊の観音菩薩像を拝み、有名な前面舞台に出て、そこからの美しい 景色を楽しんだ。仁王門は改修中で覆いをかぶって残念だが、五重塔や、遠く本坊が望める。とにかく広い。 長谷寺は全国に末寺3000余り持つ真言宗豊山(ぶざん)派の総本山で1300年余りの歴史を持つし、万葉集や、 古今和歌集、源氏物語に登場する。また、桜、ボタン、紫陽花、モミジ、寒ボタンと一年中楽しめる花の寺だ。
  前面舞台の景色を楽しんで帰りかけたところで、登廊を登ってきた仲間たちに出くわし、記念の写真を撮った。 私はこの後帰路を急いだ。          


長谷寺駅から長谷寺入り口まで

長谷寺入り口から本堂まで

長谷寺駅前の案内ゲート

残念ながら改修中の仁王門

長谷寺の登廊

登廊脇の牡丹の花

芭蕉の句

国宝の長谷寺本堂

本堂の内舞台

前面舞台



  ・最古の街道、竹内街道と山の辺の道の旅 総括:

  日本の最古の官道であり、代表的な古代の幹線道路である、竹内街道と山の辺の道 を歩いた。私にとっては この官道に沿った道路を車で旅したことはあったが、歩くとなり、改めてこの道について事前勉強したことも あり、この官道の魅力を味わい直した。
  この官道には 大古墳群や神社仏閣など、日本の重要な遺産がかなり多く凝縮されている。今回歩きはしなかったが、 堺から上ノ太子までの竹内街道も含めると古墳群、特に天皇の陵墓に関しては大規模な古墳群は殆どがここに 集中している(他の大規模な古墳群は岡山県の吉備の地区にあるが陵墓ではない)。しかも箸墓古墳など日本最古の 古墳群、陵墓群がここに集中している。
  次に機会を見て、堺地区の陵墓群を歩きで回ってみたいと思っている。



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