マレーシア縦断の旅6日間
(2015.3.28ー4.02)

  マレーシア縦断の旅6日間が今日からスタート。マレーシアは日本より少し面積は狭いですが、人口約3000万人 と人口密度は低くゆったりとしています。
  マレーシアの歴史はなんといってもマラッカがスタートです。そのマレーシアの歴史を少しおさらいして マレーシア縦断の旅に臨むことはこの旅を一層楽しくしてくれると思いました。   マレーシアは1400年以降イスラム教のマラッカ王国が支配していましたが、1511年にポルトガルが マラッカを占領しました。錫などの資源を狙ってもありますが最大の目的は香料の確保です。当時冷凍技術 がなく、西欧の人々にとって肉の長期保存に香料が必要で、香料貿易は多大の利益をもたらしたのです。当時マラッカは 香料貿易の中心地になっていました。
  マレーシアと日本との関係で歴史的に重要なのは、1543年の鉄砲伝来も、1549年にフランシスコザビエルが 日本にキリスト教を伝えるのもポルトガル占領下のマラッカを抜きには考えられないことです。鉄砲は海賊から 貿易を守るためマラッカは鉄砲の生産基地にもなっていてマラッカ銃ができ、種子島に漂流した船から日本にマラッカ 銃が伝来したのです。キリスト教はフランシスコ・ザビエルがマラッカで日本人ヤジロウと知り合い、彼の手引でゴア から鹿児島に上陸し布教が始まったのです。
  1641年にはオランダがマラッカを占領します。それが現在マラッカのオランダ広場・セントポール教会跡 として世界遺産になっています。
  18世紀の末に英国はまずペナン島を獲得し、そこがジョージタウンとして世界遺産になっています。英国は更に マラッカをも獲得します。19世紀に入り更に英国はシンガポールをも獲得し、マレー半島を英領植民地としました。 その後、1941年からのの太平洋戦争の間日本がマレー半島全域を占領しましたが、戦後の1957年にマラヤ連邦として独立し ました。
  1963年には北ボルネオ、サラワクがマラヤ連邦に統合され、マレーシアが成立しましたが、1965年にシンガポール が独立し、13州のマレーシアとなりました。1981年から2003年の長きに渡りマハティールが首相となり今日の マレーシア発展の礎を作ったと言われます。



マレーシア縦断の旅 の地図


  2015年3月28日朝家を6:40に出て車をいつものように成田のJ-Parkingに預け、成田11:10発で クアラルンプールに向かいました。所要8時間、時差1時間で18時半に着いたが、マレーシア国内便で更に ペナン島に向け50分飛んで当日はペナン島のホテル泊まり。
  現地ガイドは中国系マレーシア人の林さん。日本人と間違う位日本語がうまいが渋谷で3年間勉強したといいます。 彼は中国語、マレー語、日本語、英語など7ヶ国語が話せるという。
  マレーシアはマレー人65%、中国人25%、インド人10%の多民族国家。マレーシアの旗は米国の旗に似ているが 線は13本で州の数を表す。以前は14州あったが50年前にシンガポールが独立しました。イギリスの植民地だったことから、 日本と同じく車が左側通行。ガソリンは65-70円/Lで日本の半分だが自動車は日本の倍するといいます。
  マレーシア人は10万円程度が中流の月収で、高卒は5-6万円程度。マンションは80m2で2000万円程。 通貨リンゲットRM=35円程度。消費税は現在6%(4月1日からアップ予定)で、レストランではこれに10%のサービス料 が加わる。
  今は乾季でスコールは少ないが、雨季はひどいそうだ。


成田から出発

ペナン島の我々のホテルとバス

  翌3月29日は9時にホテルを出発して、午前は世界遺産「ペナン島ジョージタウン観光」(1時間30分)。 ペナン島は英国の東インド会社の植民地であった。ペナンとはビンロウの木が語源となっているが、コロニアルな 雰囲気で、ゴミもなく実に美しい。最初はジョージタウンを散歩し、英国が外国勢力や海賊から島を守るために 造られたコーンウォーリス砦や天皇陛下が42年前に植樹した木が大きく育っていること、美しい白亜の旧市庁舎など を訪ねた後、トライショー(人力車)に乗車してチャイナタウンを駆け抜け、ピタン・クリン・モスク前で降りた。 ここから再び散歩し、インド人街のヒンズー教寺院、中華街の仏教寺院、セントジョージ教会などを訪ねた。
  イスラム教は豚肉食べず(「ハラール」マークは豚肉無しを示す)、一日5回の祈りをする、一夫多妻は4人まで など他と異なるしきたり、ヒンズー教は牛肉を食べないなど各々異なるしきたりの中で、マレーシアは多民族だが 問題は少なく、治安も悪くないは不思議とも言える。拳銃、麻薬の所持は死刑となる。        


ゴミもなく美しいペナン島

天皇陛下植樹の木の 前でガイド林さん
アルボルフォス司教

コーンウォリス砦

白亜の旧市庁舎とJALAN通り表示

トライショーで中華街を走った

カピタン・クリン・モスク

仏教寺院

美しいセントジョージ教会


 昼食はマレー料理。昼食後、ペナン島からは長いペナン橋を通りマレーシア本土に向かった。そして 約75km、約1時間バスライドでブキットメラへ。ここでのお目当てはオランウータン。
オランウータンは人類に最も近い動物の一種で人類の起源?ともいわれる。オランは森、ウータンは人で、森の人という 意味のマレーシア語なのです。実はボルネオ島からここに移住させて保護しているという。ボルネオ島はマレーシアと ブルネイとインドネシアの3国に分かれる大きな島だ。
  ボートに乗り換えオランウータン保護島へ。着後、オランウータンがオリの外、人間が オリの中に入って見学する。最初はなかなか見つからなかったが、最終的には6-7匹を見ることができた。 観光後、高原避暑地のキャメロンハイランドへ。高速で1時間、密林の中を(この密林には世界最大の花、ラフレシア が咲く)曲り道路を約150kmを2時間走リ上がり、漸く1800mの高地のキャメロンハイランドのへりテージホテルに 19時半に辿り着いた。このホテルは一目で英国調と感じる赤い屋根、白い壁、黒い線が特徴的な建物だ。 周りの緑も美しく絵になる風景だ。
  夕食はスチームボートという寄せ鍋料理を食事した後、メールチェックしていたら 友人から「新日鉄時代の大先輩(神居詮正氏)が大往生した」との連絡が入り、その葬儀日程メールを確認し、ホテル のWIFIでスマホを使い苦労したが何とか弔電を打てた。


ボートでオランウータン島へ

ようこそ!オランウータン島へ

オランウータンを見つけた!

立ち上がったオランウータン

ヘリテージホテル


  翌朝の朝食はホテルのアウトドアでキャメロンハイランドの緑の景色の中でゆっくり食べることができた。
10時にホテルを出発し果物や紅茶の特産が並ぶ朝市で紅茶やハチミツや人形等買物をした後、キャメロンハイランド の紅茶園を訪ねた。お茶畑が小さな丸い緑の絨緞を無数に敷き詰めたように茶畑が一面に広がる高原を目のあたりに した。まさに壮観な眺めだ。この眺めは後日私の油絵のモチーフにしたいと思った。ここは進出して来た英国人が紅茶 の栽培に適す場所として始めた茶園です。紅茶園の中を歩き、そこのレストランで一杯紅茶を楽しみ土産の紅茶を しこたま買った。ここの紅茶の価格は他の何処よりも安価だった。
  昼食はマレー風きし麺を食べた。その後は約250km、約4時間走ってクアラセランゴールへ向かいホタル観賞の 予定だった。現地到着頃から雨があったがその内雨はあがるはずと暗くなるのを待った。しかし夕食後も雨は収まる どころか雷雨とひどくなり結局ボートでのホタル鑑賞の予定は中止。しかしながらわずかに雨に濡れる木の葉の裏側 にホタルが宿り、わずかに点滅するホタルを見て良しとせざるを得なかった。 その後、約90km、約2時間走って、クアラルンプールへ。途中ペトロナスツインタワーライトアップを見て 22:30に ホテル着。


アウトドアで朝食

ハイランドの朝市

キャメロンハイランドの紅茶園

キャメロンハイランドのストア

二種類の紅茶

クアラ・セランゴールのオフィス

ホタル公園のポスター

やっと見えた!(点がホタル)

ライトアップのKLCCタワー



クアラルンプールの地図



  連泊するクアラルンプールでのホテルRamadaHotelで52m2あるデラックスな部屋。部屋が広いのでテレビも2台あった。 ここの窓から、ペトロナスタワーもKLタワーも良く見えた。近くにはクアラルンプール鉄道駅、緑色の国立モスクが見えた。
  9時半にホテルを出発して約35km、約45分走って、プトラジャヤに着いた。ここは2000年頃から建設を開始した、政治の街で、 官庁や銀行などが集結している。美しいプトラモスクや首相官邸の写真を何枚も取った。
  マレーシアでは政治はマレー人がやるという、従ってここはマレー人の街だ。経済、商売は中国人、インド人がやる。大きく 言うとこんな分担ができているそうだ。
  その後、約140km、2時間走りマラッカへ。マラッカはヨーロッパの面影を色濃く残すマレーシア最古の都だ。1511年に ポルトガルが進出し、次にオランダが進出し、イギリスが植民地化した。何故ヨーロッパがマラッカを狙ったかは、マラッカが 香料の中継基地だったからだ。マラッカ観光(2時間)は、スタダイス、オランダ広場・キリスト教会、セントポールの丘・セント ポール教会、サンチャゴ砦、青雲亭寺院、チャイナタウン散策など見るべきが多かった。オランダ広場は観光の中心になるが大勢 がここで和んでいるのが分かる。近くにマラッカの木が黄色い実をつけてそよいでいた。特に感激したのはオランダ広場から丘を 上って、セントポールの丘からマラッカ海峡を広く臨めた時だ。大きな船が沖にぽっかり浮かんでいた。
  マラッカもマレーシアの縮図で、青雲亭寺院、モスク、ヒンズー寺院が共存している。
  観光後、約90km、約2時間走り、クアラルンプールへ戻り、夕食レストランへ。日本食の夕食を食べ、ホテル着19:00。
  この日はKLタワー、中華街を訪ねるオプショナルツアーの日。KLタワーは今ではペトロナスタワーに人気を奪われたので ガラ空きだったが、ここからの景色は夕暮れのペトロナスタワーが望め、見事だった。人混みでごった返していた中華街では 杏仁豆腐が美味しかった。クアラルンプール一の繁華街ブキッビンタンでは最新のパビリオンでブランドショップを横目で見て、 スーパーマーケット的な店に行き、各種の豆類を手に入れた。   


クアラルンプールのラマダホテル

ホテルの部屋からの眺望

プトラジャヤの首相官邸

プトラジャヤのプトラモスク

マラッカのヒンズー寺院(手前)とイスラム寺院(奥)

マラッカの星雲亭寺院

星雲亭寺院の天国の像

マラッカのオランダ広場

マラッカの木(手前の黄緑の木)

セントポール教会跡

セントポールの丘からの眺望

サンチャゴ砦跡

果物が豊富な店屋

KLタワーからの眺望

夜のKLタワー

ブキットビンタンの新パビリオン

ビルの谷間の開放的なレストラン街


  04.01(水)の午前は自由行動だった。私はペトロナスツインタワー(KLCCタワー)にどうしても上りたかった。ツイン タワーは各々日本の建設と韓国の建設によるものということだが、韓国側の方はずさん工事で傾いている、ビルへの入居会社も 韓国側が少ないということがインターネット上で話題になっていた。当時は世界一の高さを誇ったビルが今は世界7番目となったが、 いずれにしてもマレーシアの象徴的なビルである。事前にチケットのインターネット予約をしたかったが4月1日から予約 システムを更新中(4月1日から消費税がアップ)で予約販売が中止されていたので現地窓口で買う必要があった。
  ガイドの林さんに相談すると、KLCCタワーとセントラルマーケットの両方をバスで回るツアーを作ってくれ、合計7人 がこれに参加した。しかも我々だけでなく7人全員がKLCCタワーに登ろうということになった。林さんが便宜を図ってくれて、 シニア割引や若年割引きをしてくれて半額の40RMで、170m高さのSkybridgeと370m高さのObservationDeckに上ることが できた。当日は晴天で、この高さからの眺望はまさに絶景。KLタワーや宿泊のRamadaホテルも確認できた。このツアーは 結果的には大正解であった。
  この後は林さんに教えてもらい皆の希望であったスーパーマーケットに寄った。驚いたのはこれがKLCCタワーに地下 にあったことだ。ここで、日本で話題となり品切れのココナッツオイルを買った。次にクアラルンプールの繁華街、ブキット ビンタンの最新のパビリオンに行き、各々が買物した。ブランド靴を2000円程度で買った人も居た。我々はパビリオンの 地下にあったスーパーマーケットに行き、買い物した。ここのココナッツオイルは売り切れとのことで、他の食料品を しこたま購入した。時間はあまり残っていなかったが、最後にセンターマーケットに行った。種々の雑貨が豊富に、格安 であったようでもっと時間が欲しかった。

       午後は ホテル発で昼食はチキンライスを食べた後、クアラルンプール観光だった。国家記念碑、国立モスク、 独立広場・旧連邦事務局、KLCCパーク(ペトロナスツインタワーを望むスポット)、新王宮などを見物した。マレーシアには 13州の内9州に王様が居て、王様は5年毎の交代制だそうだ。
  夕食の中華料理を食べた後、約80km、約1時間30分走り空港へ。22:50 クアラルンプール発で帰途についた。


いざ、KLCCタワーに上ろう!

スカイブリッジで

スカイブリッジからのKLCC公園

ObservationDeckからKLタワーを見る

ObservationDeckから下を見る

世界の高層建築TOP10

新王宮

国家記念碑

独立広場と旧連邦事務局

独立広場にある歴代首相の顔絵

緑の屋根が特徴的な国立モスク

国立モスクの中で

中央市場

中央市場の中で

  マレーシア縦断6日間の旅を終わって

  旅行前に、マレーシアは最も住んでみたい国にランクされると聞いて驚いたが、実際訪問してみて感じたのは、 なるほど美しい国で、ゴミ、チリが見られないし、バイクの喧騒が見られず、なにか落ち着きを感じる国で、 住んでみたいという気がわかる気がした。マレーシアにはマレー人、中国人、インド人が諍い無く共存している。 カイドの林さんが何度もこのことを強調していたのが印象的だった。
  何故、マレーシアでは多民族がうまく共存して暮らしていけるのだろうか?マレー人はイスラム教であるが、 ここのイスラム教は厳しい、激しいイスラム教でなく、穏やかなものと聞くが、これも一因でしょう。私は最大の 理由はおそらく民族間に貧富の差が少ないことではないかと思う。マレーシアでは政治はマレー人、経済・商売は 中国人、インド人と分担して共存している。このことでおそらく貧富の差は少なくなっていると思う。貧富の差が 少ないことは互いに寛容な心を生む。
  現在世界で問題となっている、イスラム国の問題や西欧での移民が惹き起す犯罪問題も、貧困問題が根底にあり、 貧富の差の大きいことが大きな原因と言われる。マレーシアではこの問題をうまく解決していると感じられる。

  日本は今後一層急激な人口減問題に直面し、移民問題が喫緊の課題となるでしょう。移民を多く入れても 社会不安を惹き起すこと無く共存できる鍵はマレーシアを大いに参考にすべきではないかと思う。日本人は寛容な 国民性を持つという点では合格である。更に如何に多民族の移民を受け入れても安心安全な社会を築けるかであるが、 日本人と移民の人々との間でできるだけ貧富の差が少なくなるような方策を取ることが重要です。外国の人々に 比較的報酬の高い職業についてもらえるように、そういう人々に日本に移民してもらえるような仕組みを考える 事が極めて重要だと思います。
  最近、曽野綾子さんが「移民を受け入れた上で、人種で分けて居住させるべきだ」と主張し、物議をかましている ようですが、どこの街でも、人種毎に分かれて居住区を作っているのは実態だろうと思います。勿論夫婦が異なる国 同士の結婚で、人種が纏まって住まないのはベターとは思いますが、実際多くがこのような夫婦になることはないで しょうし、実際は人種別の居住街は自然発生的にできていくでしょう。重要な事はその居住区が社会不安を惹き起す ようなことがないような仕組みを考えることだと思います。

  このようなことを考えさせてくれた今回の旅は極めて意義深いものだったと感じています。



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