神田川遡行
(2019.4.11)

  街歩き仲間での東京近辺の半日街歩きは、2018の調布三鷹の街歩きに続き、 が12回目となる。いつものメンバー、8人が4月11日 飯田橋駅東口改札に13時半に集合した。今日のルートは 神田川に沿って歩く計画で、飯田橋から近くの印刷博物館→江戸川橋駅→関口芭蕉像、肥後細川庭園→山吹の里の碑など を訪ね→高田馬場駅終着だ。


Google経路Mapで描いた神田川遡行行程図


1590年より前の地図


1620年神田川の流路が決まった頃


    神田川は井の頭公園内の 井の頭池を水源として 東京を東に流れ 浅草橋の先で隅田川に注ぐ全長およそ25 km の都内では最大級の川です。 江戸時代には神田上水として江戸の水道でもあったし、 現在の神田川中流域は昭和40年までは江戸川と呼ばれていた。  町歩きを始める前に少し江戸の町がどのように作られたかを 勉強してみると、 まさに江戸は 湿地帯だらけだったのを家康が作り変えたのだ。 元々神田川は 平川と言われ、 日比谷入江と いうところに注いでいたのを 日比谷入江そのものを埋め立てし、 そこに 城の外堀を作った。南下していた平川の流れを 東に流して 隅田川に 直接注ぐようにし、 これによって 東西の 物流が大幅に改善されたという。神田川が誕生する前の1590年前と 1620年ころの神田川の流路ができた頃の地図を見比べてほしい。
  飯田橋駅からスタートして まずは印刷博物館に立ち寄った。印刷博物館は凸版印刷が建設・維持管理し、印刷技術の歴史を展示 している世界でも珍しい博物館。 びっくりしたのは 印刷文化の歴史を一望する大壁画があり、ラスコーの洞窟壁画、 エジプトの死者の書 、ハンムラビ法典の碑、Rosetta Stone 、漢倭ナ國の王の金印、コーラン、カンタベリー物語、グーテンベルグの四十二行聖書、 解体新書、 東京オリンピックのポスターに至る まで一望にできたことです。 もちろん 複製ではありますが凄く迫力があります。  次に向かった江戸川橋の江戸川とは 神田川中流域を指していて、 江戸川橋から北へまっすぐ伸びる広い通りは音羽通りであるが 、護国寺を創建した五代将軍綱吉によって開かれた将軍御成道でした。 江戸川公園はこの 江戸川に沿ったな細い公園であり 絶好の遊歩道であり桜の名所でもあります。 江戸川公園の先端にの関口には 大洗堰の一部が復元されていて、水をせき止めて江戸の水道に繋いだ重要な堰でした。  さらに行くと椿山荘がある。 椿の名所であったからこの名がついたが、もともとは江戸時代には黒田豊前守の下屋敷であり、明治に入り山県有朋の別荘地となったが、現在は藤田観光が所有する。 椿山荘には 神田川沿いの冠木門から中に入ったが、 昔の古い建物に加えて 馬鹿でかい 建物のホテルが 望めた。  


印刷博物館の入口

ロセッタストーンとハンムラビ法典

江戸川公園

文京区の地図看板

大洗堰

椿山荘の木戸門

古い椿山荘ビル

新しい椿山荘ビル

  椿山荘の先には芭蕉が深川に移る前の四年間過ごした関口芭蕉庵がある。芭蕉が仕える 伊勢国藤堂家が神田川上水改修工事に関わった時に、芭蕉が工事監督となり、この地に住んだと伝えられるが、まだ芭蕉が有名になる前のことである。ところがここには芭蕉の墓もあるから不思議である。   この隣には肥後細川公園がある。細川家の本邸は今は和敬塾となり、 事務所は永青文庫となり、 学問所は 松聲閣となっている。 捕食明野 庭園跡地 の回遊式 庭園である 収集した資料を永青文庫にある 永青文庫は閉鎖されていた 。  この先に山吹の里の碑がある。太田道灌が鷹狩の際、農家の娘から箕を借りようとした時 山吹を一枝差し出された。その意味は「七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」にかけたもので、無学を恥じた道灌は以後和歌の勉学に励んだという。   さらに高田橋に出るこの橋の下が神田川本流、神田川分水路、および妙正寺川との合流地点である。分水路というのは大雨の時の洪水を防ぐための地下水路。  神高橋の付近は水害多発地帯であり、通称 高田馬場渓谷と呼ばれ、 神田川で最も速い流れの所である  高田馬場のいわれは3代将軍家光が作らせた馬場がこの辺にあった ことによる。 駅の改札の天井に馬の彫刻が飾ってある。 打上げは17時から高田馬場駅近くの「柚庵」であった。


関口芭蕉庵

芭蕉の墓

肥後細川公園

永青文庫

山吹の里

神高橋分水路

高田馬場渓谷

高田馬場駅

・神田川遡行総括:

  今回の街歩きの前に江戸の街づくりについて、NHKスペシャル大江戸が特集していた。   大江戸街づくりのポイントは、@螺旋状の濠づくり、新しい濠の作り方だ。この濠は船での輸送路にでき、外側に 拡張して街の拡大を支えた。A日比谷入江の大埋め立て普請や濠づくり、石垣づくりに、埋め立てや戦闘の終った武士を 天下普請に駆り出し、地方の大名に普請を割り当て競争させた。その石は主に伊豆半島から切り出した。これで40万人都市となり パリ、ロンドン並みとなった。B伊那兄弟が玉川上水を作り、神田上水も作り、巨大地下水道網(地下水道木管と木製井戸の ネットワーク))を整備し100万都市を支えた。 以上が骨子であるが、江戸の街は、まさに為政者の家康の構想が当時世界一 の人口100万人の街を作った。家康の凄さを強く感じた。  今回の神田川遡行は、大都心に神田川に沿ったこんな素晴らしい遊歩道があることを知り、神田上水の歴史が学べ、 有意義な一日だった。




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