伊豆下田街道歩きの旅
(2019.11.13-14)

 11月13、14日の2日間で 伊豆下田街道 をいつもの6人の仲間と歩いた。 初日は前日が雨で 当日13日は 曇り一時雨の予報であったが、道も悪かろうと行程案のA案を止めて B案(江川 散策の道と 頼朝政子 ロマンの道) をとることにした。翌日は浄蓮の滝、天城越えして河津に至る計画であった。   


伊豆下田街道歩きの旅の日程計画(2019年11月13日−14日)


伊豆下田街道歩きの旅の地図(GoogleMapで全歩行として作成した)


 まずは 三島駅に6人全員集合し 伊豆長岡 まで電車で行き 、ここから歩きをスタートした。
ところがである。歩き始めてややしばらくしてリーダーが 足のつま先を 道路の出ぱりに引っ掛けてひどい転び方をし、 右手の指をケガし、出血も多かった。何とか 絆創膏で出血を止めたが、「 この先の行程を変更しようか」と いう仲間 の呼びかけに対して、彼は「 自分のことは自分が一番分かる。予定通りに行く」と、計画通り行くこととなった。
 最初の目的地が 世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の一つ、韮山の江川坦庵の反射炉で あったが、 その前に江川家の 菩提寺である本立寺に立ち寄った 。反射炉は広大な敷地の中にあったが大勢の観光客で賑わっていた。 反射炉とは何を反射するのか?スマホで調べると 熱反射であり、これにより鉄の溶解温度まで 高温にするのだ。
 韮山代官所(江川邸)は広大な敷地の中にあった。 国の重要文化財である 主屋の中に入ると案内ガイドが待ち受けて くれ素晴らしい説明をしてくれた。主屋の堅牢な骨組みが800年以上天災火災に耐えてガッチリ残っている。 13世紀に 日蓮聖人が訪れたが、 自筆の棟札を贈られたご利益のおかげ と言う。代官だった 江川坦庵は 伊豆国を中心とし、駿河国・相模国・武蔵国と 広大な地域を支配し善政をしき、「世直し大明神」と言われるほどだった。一方で 渡辺崋山から 西洋事情を学び、日本 の海防政策の必要性を痛感し幕府に進言したり、江戸湾を測量したり 西洋流砲術を高島秋帆に 学んだり 、また江川塾 を開き門弟に その砲術を 教え、反射炉を作った。 1853年にペリーが来て、慌てふためいた幕府は 海防に詳しい 江川に 江戸を守る大砲の台場建設を命じ、 2度目来訪の1854年ペリー来航の時には江川は 交渉の前面に出たり、兵の訓練をしたり その他諸々の海防政策を立案実行し、超多忙となった。幕府は江川を 勘定奉行 兼外国奉行に任命したが その翌月の1855年 1月に 死に至った 。まさに江川坦庵は学問と実践と両方こなす レオナルドダヴィンチのような スーパーマン だった。以上のこと がわかりやすく 展示されているし 江川塾の部屋もあった。


江川坦庵散策の路と頼朝政子ロマンの路



伊豆長岡駅

韮山反射炉

反射炉の原理は熱反射

江川家の菩提寺の本立寺

韮山代官所(江川邸)

邸内の堅牢な骨組みと最上部の木箱に日蓮の棟札を納める

奥に見えるのが江川塾

江戸を守る台場設置図、黄色が現存の台場

書も絵もこなすダビンチの如きスーパーマン

パンも始めて焼いた日本人、パン祖の記念碑

 次に訪れたのは 北条氏のふるさと。北条氏は韮山周辺がふるさとで、周辺に源頼朝が流された蛭ヶ小島があり、政子の 産湯の井戸があり、北条家菩提寺の成福寺、願成就院 があり、さらに 真珠院は 頼朝との恋を親の伊東祐親に反対され、 また頼朝をを政子にとられ入水自殺した八重姫を祀る寺である。 願成就院は残念ながら定休日で 運慶の4体の仏を拝めなかった。
 この後は 伊豆長岡駅に戻り 電車で修善寺に行き、 湯ヶ島温泉の リブマックスリゾート 天城 に泊まった。 湯ヶ島温泉は、川端康成の 第2の ふるさとと なった湯本館が あるし 若山牧水や井上靖の作品の舞台となった所。 我々が泊まったリブマックスリゾート天城もなかなか洒落ているホテルで、露天の五右衛門風呂が各部屋にあるなど 満足できるホテルだった。


北条一族の菩提寺、成福寺

北条政子産湯の井戸

右手に悲しい八重姫を祀る真珠院真珠院

願成就院は定休日で運慶の仏を拝めなかった

湯ヶ島温泉リブマックスリゾート天城

各部屋に露天の五右衛門風呂付き

 翌日は 宿を出て、浄蓮の滝、天城越え、河津七滝と歩き、湯ケ野経由で河津に出て、帰宅の途に付く予定だ。 歩き始めに、リーダーの右手を確認したが、指の腫れは明らかだが大丈夫とのこと、幸い天気もよく予定通りだ。
 湯ヶ島温泉の 宿を出て 浄蓮の滝まで 天城遊歩道 3km が整備されているようだ 。浄蓮の滝は高さ25 M ほどだが 水量が多く音も大きく 迫力がある 。石川さゆりの「天城越え」の歌詞を刻んだ碑があった。天城はがけ崩れが多く、 足元が悪いが、湧き水が多く定温が必要なわさび栽培に適していて、山奥にも拘らずわさび栽培が盛んで有名。試食して 確認したが実にうまく、土産に わさびを買った。
 浄蓮の滝付近の看板には浄蓮の滝からは 踊り子歩道が 湯ケ野温泉まで 整備されていると書いてあったが、実際は 台風で何箇所かで 通行止め になっていた。さらに歩いて道の駅「天城越え」、 昭和の森会館に 着いたがここでもまた、 わさびを買った。 次は旧天城トンネルを目指したが、踊り子歩道が一部通行止めのため 自動車道を 通ったが、左折2 km で 旧天城トンネルというところに通行止めの看板があった。残念至極と思ったが そこから出てきた トラックの運転手に 聞くと、「トンネルに車は行けないが 歩くなら 大丈夫、行けるぞ 」いう言葉に安堵した。左折してすぐのところに 川端康成 と 伊豆の踊り子の文学記念碑があった。
 旧天城トンネルは長さ440 M 幅3.5 M で明治38年に開通した。石で作ったトンネルとしては日本最長。 確かに古めかしくどっしりしていて風格がある。車は通行止めなので(通行止めのはずが1台スレ違った)安心して 声を出し反響を楽しみながらトンネルを歩いた。このトンネルを越えてやっと「天城越え」を果たした。
 さらに二階滝を見ながら河津七滝に向かった。 最初の釜滝にたどり着くまではには 整備された階段を数十メートル降りた。 初景滝には伊豆の踊り子の像があり 、また この映画のヒロインの 女優の経緯が示されていた(初代は田中絹代、 美空ひばりと続いて一番新しいのが 山口百恵)。 出合滝を 見た後 最後の 大滝は少し離れていて、一旦道路に戻り 少し歩いて大滝に行った。 大滝は名前の通り浄蓮の滝に匹敵する豪快さだった。残念なことに大滝には私と もう一人 の二人しか行かなかった。 大滝に行く途中に 露天風呂「 洞穴の湯」があったがこれは ホテル 天城荘に泊まらない と入れないという 。 大滝からは 湯ケ野温泉を経由して 河津駅までは バスに 乗った。 帰りは伊東経由で帰宅した。


明らかに右手は晴れているが、大丈夫とのこと

湯ヶ島から浄蓮の滝が天城遊歩道、浄蓮の滝から湯ケ野までが踊子歩道

迫力があった浄蓮の滝と石川さゆりの「天城越え」碑、

湧き水豊富で水がきれいな わさび園

浄蓮の滝からは踊り子歩道

道の駅、天城越えと昭和の森会館

通行止め看板に驚いた!

川端康成の文学碑

旧天城トンネルはもう少しだ

明治38年にできた旧天城トンネル

ついに天城越え!!

河津七滝の看板

釜滝、

初景滝と伊豆の踊子像

伊豆の踊子の主演女優の経緯

豪快な大滝

右手が河津行きのバス、左手が天城荘

河津駅


  ・伊豆下田街道歩きの旅 総括:

  今回の旅で当初最も期待していたのは、「天城越え」でした。石川さゆりの歌「天城越え」で名高く、あれほど絶叫 したり、必死になる場所は一体どんなところか?毎年のように紅白で聴いていて、かねてから訪ねたく思っていた。そして ブラタモリで伊豆が放映され、だんだん現実的なことがわかってきて、今回の旅に期待してきた。ここは伊豆の南北に通 じる難所で、越えると気候も変わる分水嶺の場所だ。天城越えは、南伊豆の人々が東京や関西に行くためにはどう しても越えなければいけない難所で、それを越えた時の感激であり、我々は天城トンネルを北から南に抜けたが、逆から 南伊豆の人が抜けた時の感激であることはブラタモリの天城越えで知った。
 石川さゆりの歌の歌詞は吉岡治さんが書いたそうだが、天城越えの感激を掛けて、叶わぬ恋とか、不倫の歌とか、…… を伊豆の難所を舞台に選んで描いたのでしょうが、どんな場面を描いたのか?なかなか解釈が難しくネットでもその質問 に答えるいろいろな解釈が飛び交っている。いずれにしても、ミステリアスな歌詞で、解釈が色々幅広くできることは、 歌詞として素晴らしいと感じた。
 天城越えは今回の旅の最大の目的であったが、トンネルが車通行禁止で、車に悩まされないで歩けたのは実に 幸運にでした。
 実は予期していなかったが、今回の旅で最も感動したのは、韮山の江川亭訪問で、案内ガイドの説明を聞き、江川坦庵 (英龍)の生き様を知ったことでした。彼は地方の代官という体制の立場の中にありながら、幅広い情報力を持ち、救国の ための海防政策の必要性について、幕府の中枢に迫り進言し、反射炉を作り、台場建設など自分の思うことを実現していく。 色々なことに興味を持ち、書、絵画などその道の達人となるダビンチの如き文武両道のスーパーマンであったことを始めて知った。
 帰宅してから、直木賞作家佐々木譲の「英龍伝」を図書館で借りて読み、さらに理解を深めた。江川は必要と考えたら、 その道の第一人者に教えを請いに行き、関係を作り、交友範囲を広げる。彼は 控えめで相手を立てるから友も広がる。 間宮林蔵区に測量術、斎藤弥九郎に剣道、中浜万次郎に英語の通訳、 渡辺崋山から西洋事情、高島秋帆から西洋砲術、 等など。江川塾では佐久間象山、大鳥圭介などを育てた。
 そして,英龍のことを私がもっと若い時に知っていたなら自分の人生を変えられたかもしれないと少し残念な気持ちに なった。



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