¥^¥/¥^
江戸城外堀歩き
|
![]() 牛込見附跡、ここは上州道に通じる。最もよく残る遺構 |
![]() 江戸城のお堀めぐりは表示がしっかりしている |
![]() 江戸城外堀の堤を歩く |
![]() 市ヶ谷門跡 |
![]() 四谷見附跡、甲州街道の出発点 |
![]() 上智大学が見えた、左はイグナチオ教会 |
![]() イグナチオ教会の中に入った |
![]() 清水谷、紀尾井町とも呼ぶ |
![]() 大久保利通哀悼の碑、彼は清水谷で暗殺された |
![]() 羽村から導かれた玉川上水の石枡 |
![]() 清水谷公園の駐車場ここがデモ集会場になる |
![]() 赤坂見付跡、大山道の出発点として賑わった |
![]() 赤坂プリンスクラシックハウス |
![]() 日枝神社は鎌倉時代の創建だが場所は変遷 |
![]() 首相官邸を臨む |
![]() 工部大学(現東大工学部)跡 |
![]() 江戸城外堀跡の発掘調査を読む |
![]() 弁護士会館B1Fの二条苑で打ち上げ |
江戸城外堀歩き 総括:
長年首都圏に住んでいながら江戸城の外堀を歩いたことはなく、外堀が予想以上に史跡として残っていること
に驚き、また千代田区がこの外堀史跡の説明看板や地図を整備していることを知った。以上のことを教えてくれ、
今回の外堀歩きを企画して案内してくれたTさんに感謝。
さて冒頭江戸城の骨格は徳川家康秀忠家光の三代でほぼ形成されたということを述べたが、そもそも人が住め
るような街でなかった湿地帯の江戸をどのようにして世界最大の都市に改造して来たのか?その歴史について
少し触れてみよう。
1590年秀吉は小田原征伐で北条家を滅ぼし、その遺領を東海地方の所領と引き換えに家康に与えた。しかし
当時の江戸は太田道灌の小さい城はあったものの水害が多発する湿地帯であり、とても徳川一門が住めるような土地
ではなかったが家康は江戸の大改造に着手した。以下の政策はいずれも家康の時代に着手されたものである。
@利根川の東遷:家臣の伊奈忠次、正治の親子に命じて、暴れ川と言われよく水害をおこしていた利根川の流れを
変え氾濫を抑え運河を開削して用水路を整備し新田開発を進めた。1590年から60年かけて東京湾に注いでいた
利根川を少しづつ千葉県銚子方面に移していった。この治水事業は関東の穀倉地帯をうるおし水運による物流
を発展させ江戸の繁栄を支えた。
A飲み水を確保:江戸では井戸を掘っても海水が混じ飲み水にできなかった。家康は大久保忠行に命じて井之頭池
から江戸城城下への上水道、小石川上水(後の神田上水)の建造に着手。神田上水として完成したのは家光の時代。
さらに4代将軍家綱の時に、羽村から四谷大木戸までの全長43キロメーターの玉川上水が完成し江戸の飲料水不足
を解消した
B江戸の街の大改造:江戸の土地を広げるために、神田山を切り崩しその土で日比谷入江を埋め立て、平川を隅田川
に合流させ江戸城外堀として機能させるとともに上水として活用した(神田上水)。江戸城を拡張し本丸、二の丸、
三の丸、西の丸を作り、また江戸城の周りに多くの濠割を作り敵の防御と水上輸送の便を図った。
C江戸と諸国を結ぶ五街道を整備した。その出入口江戸五口といい、桜田門は東海道、半蔵門は甲州街道、田安門
は上州道、神田橋門は中山道、常盤橋門は奥州街道に繋がっていた。
改めてだが、徳川家康は本当に凄い人だ。権現様、神様と崇められたのもしかるべきで、日本にもし家康が生まれて
来なかったら日本国はかなり違っていただろうとつくづく思う。
![]() 埋め立て前の江戸 |
![]() 埋め立て後の江戸 |